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研究室の記録・工事中

 工事中・プチギャラリー
     
(写真左上から順に)30年前の学会発表,電子制御工学科棟前で鹿野先生と担任する学生と一緒に,着任2年目の卒研生たち(プライバシー保護の観点から暗めの写真),学生が作ってくれた工陵祭のハッピ(どこかに私のイラストが),2年前の科学技術フロンティア概論の授業にて全学科向けにSI最先端を講義した様子。
黒川真幸先生と 黒川真幸先生は,小山高専開校と同時に着任された柔道の先生です。保健体育のご担当のほか,ドイツ語も担当された様です。先生は,1964東京オリンピックで柔道を誘致したグループのお一人で,アントンヘーシンクの日本での練習調整相手を務めたそうです。先生とは将来構想委員会でご一緒したのが始めてでしたが,とても優しく懐の深い先生でした。退官のころ,直接お聞きしたこと,「技術者である前に人間であれ」は,本当に初代校長がおっしゃったんですか,まことに見当違いな質問だと思った瞬間,先生はこうおっしゃった。「島津校長は,そんなこと,言わなかったですよッ。あれは後の人が作った言葉なんだ」きりっとした厳しい表情である。えっ? 島津校長は「先ず豊かな人間性を」と仰ったことを教えてくださった。色々な人の都合があるので,なんでも真実を追求しないほうがよいこともあります,とも。別のとき,ある事件をきっかけに「先生を誤解してました」と言って若い私が謝ると「いえいえ,皆さん,よく私を誤解しておられます」と仰って,愉快そうに笑ったあのお顔が忘れられない。手紙のやり取りが続いたが,いつの日からかご返事がいただけなくなった。返事の来ない年賀状は,毎年お送りしている。
筑波大編入の起縁 小山高専に勤め初めの年の秋,筑波大学で研究指導してくださった青島先生から連絡が入った。基礎工学類長の鈴木哲郎先生から筑波大学も高専の学生を編入で入学させたいと相談があった,久保君なら相談に乗ってくれるでしょうと答えたんだが,力になってくれるか。実は進路の決まっていない進学希望者が金野先生の研究室にいた。早速彼を連れて,筑波大学の学類長室を訪ねた。初年度なので,気心が知れた近隣3高専にしか声をかけない。軌道に乗れば,全国高専に応募をかけるが,何しろ前例がないので教育システムも整っていない。たまたま金野先生は,朝永振一郎先生の孫弟子,筑波大の馬淵先生の門下だったので,話がトントン進んだ。もちろん入学試験と面接はあった。しかし,試験標本になった学生も,初めての高専からの入学を軌道に乗せる鈴木先生も,お互いに願ってもない話だったのである。鈴木先生が,私の学生時代の担任だったのも幸いした。このようにして,全国高専のうちたった3人が,初めての筑波大編入者になった。もう30年も前の話だから時効。歴史を作るとき,チャンスを受けとめる状態にあって,人の縁があるという啐啄は大事です。写真は青島先生の還暦のお祝いでのスピーチの様子です。